lim 知→∞

学びについて

わかる...? とは...?

最近

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学

って本を読みまして"わかる"ってのが"わかった"気がしたんですよ。脳科学っぽい気はしなかったけど。ってことで自分なりの知識加えたりしながら整理。

 

 

わかるとは

端的に言ってしまえば、区別すること、分類すること、差異を見出す認識すること、って端的に言ってないですね。

 

つまりつまり、"分かつこと"。

 

例としてスマホをあげてみょー。

Q. スマホってなに?

スマホはまぁ携帯電話でしょうなぁ。

 

Q. じゃガラケーも携帯電話でしょ?

確かに、でもスマホはアプリがある!それにタッチスクリーンも!パタンって折り畳めるやつがガラケー

 

 

そう考えて見ると何が違うのか自分でもあんまりわかんない。もうガラケー使ってないからガラケースマホの違いを忘れたのかガラケーの進化を知らないのかとにかくよくわかんない。強いて言えばやっぱOS?iOSとかAndroidとか。

 

 

もう一つ例を挙げりゅ。

Q. 積分ってなに?

線とかで囲まれた空間の面積を求めるあれ

 

Q. じゃあ縦×横で長方形の面積を求めるやつも積分

と言われると。。。インテグラル出てこないし。。。

 

 

などとなるとやっぱり積分についてどこまでわかっているのかと疑問になるのかならないのか。

(なお、縦×横は積分の特殊な形でy=(縦の長さ)を区間(横の長さ)から0で積分したものと言えます)

f:id:shigenoir:20180712225133j:plain

 

ここで自信がないのと自己防衛と理解促進と色々兼ねてかくと、「積分はそうじゃない!」みたいな指摘が飛んできたとしてそれが正しかったら、自分の「わかった」はしょぼかったというのか、程度の低い「わかった」だったということですね。

 

それに積分は何やらリーマン積分ルベーグ積分があるとか一昨日知りました。その区別も含めれば上述のはリーマン積分になります。ルベーグ積分は説明できるほどわかってないです。

 

 

分かつだけでOKなのか?

ここで"心像"という言葉を使っていきます。心像ってのは心に思い浮かんでくる現象です。現象って何かってなっちゃうともなるので、現象はイメージとかでもいい気がします。

 

わかっているってのは心像を浮かべられる、イメージできることだと思います。んでその心像を自由に呼び起こせるというのか引き出せるってのが記憶しているってことに当たります。

 

 

 

んでここで考えたいのが、例えば「悲しい」ってのはイメージできると思うんですよ。泣いているとか顔の表情で。でもそれってすごくないですか??

 

 

でも、「常住座臥」って言われてすぐイメージできる人はそこまで多くいないと思うんですよ。でもこれ意味難しくない。いつも、それでオッケー。

 

 

じゃあ「わびさび」とかどうすかね。正直自分はあんまわからない。なんとなく「あ、わびさびっぽいな」みたいな感覚になる時はあるよりのないんだけど、この三つで考えて見ても、やっぱり普段日常的に使う言葉だとか概念ってわかるしイメージしやすいですよね。

 

 

思うのは、普段使っていればなんとなくイメージできる。でも使わない言葉はもちろんイメージできない。使うことはありそうでもちょっと抽象的だとうまくイメージできないとか。

 

 

 

生まれた時を考えてみれば何も知らなくてただただ視覚にイメージが焼き付けられ、音という振動が伝わってきて、なんかちょっと匂いがして、あ、触った感触ってこんなのか、と世界を知覚していくわけですね。

 

 

そう考えてみれば、上にあげた「悲しい」とか「わびさび」とかすごい抽象的ですよね。人間はまず物から認識し始めたんでしょう。あと感触か、うんち気持ち悪くて泣くみたいな。そんであるものや物体を度々認識するたびにそれが心象として記憶されていく。

 

 

ここで重要なのは、対象はお母さんかもしれないし、哺乳瓶かもしれないし、おもちゃかもしれないけど、とにかくそれを色んな角度から眺めて視覚に焼き付けるってことだと思います。

 

 

また図形を出しますけど、丸を見た後に、長方形を見て、それが何かと聞かれたらそりゃ丸は丸だし、長方形は長方形だと思うんですけど、それが立体だったら、ちょっと角度が変わったら、それは円柱だったとわかりますよね。

 

円柱をある特定の角度から眺めた時に、長方形だったり丸に見えるみたいなね。この例はアウフヘーベンを説明する時のわかりやすい例だと思ってます。アウフヘーベン止揚とも言いますが、対立・矛盾する二つの意見を調停する形でより高次の概念として統一するみたいな意味です。ここでは「これは丸だよ!」っていうのと「いや、これは長方形だ!」という意見を統合するものとして「二人とも、これは円柱なんだ」という流れが想像されます。

 

 

さて、そんな感じで世界を知覚して物事の心象をどんどん獲得していき、知覚したものが自分の中の心象と一致させる、つまり同定する能力もどんどんついていくわけですねぇ。この同定ってのは、物事を区別してそれがそれであると認識することなのでわかるに近いと思います。

 

 

さらにさらに、抽象的な概念、感情とかを考えていくにあたっては、今までに獲得した心象を用いて「あ、これはこの感じに近いな」とか「あ、これはあれとあれの中間くらいの感じだな」とか自分の中の心象と相談して色々な感覚を新たな心象として記憶していくわけですね。

こうして色々な物事や感情を分類することができれば、分かつことができているわけですから、わかっている、に近づいているんでしょう。

 

 

わかりやすいって

んで、色々知覚して違いを認識すればわかる、と思いきやそうでもないような気がするのが、勉強とかで覚えることでしょうか。なぜ漢字が覚えられないのか。文法が覚えられないのか、数式がわからないのか。

 

それはまずイメージができていないというのが一つ可能性としてあるかと思います。

もう一つはイメージもできた、でもなんか心象として記憶に残らないみたいなパターン。

 

前者からいきまーす

イメージができないというのは物事を一側面からしか捉えていなかったり行間がはしょられているからとかではないかと思います。下記の説明はどうでしょうか。

実存:主観とか客観とかに分けてとらえる前の、存在の状態。ここに今あるということ。

我思うゆえに我あり?でもそれは結構主観的じゃね?と思ったり

んで補足説明

実存=現実存在の略

実存の反対は本質存在

 

実存主義とかいう哲学思想を説明すると、人間とは?みたいなことを定義しようとしたりしてるけど、それって人間は息してて歩いたり食べたり飲んだり会話したりとか色々な要素を抽出して共通する部分を集めて「これが本質です!」みたいにやってもどの人間もこの世界に実際に生きている一人の人間なんだよ!じゃあ死んだら人間じゃないんですか?喋れないとかで会話してない人は人間じゃないんですか?そんな風に本質に人間をやり込めるなんて無理なんですよ!もっとちゃんと目の前にいる現実に存在している人間を見て!みたいなやつ

 

って感じに言ったらなんか実存って多少は伝わったんじゃないでしょうか、多分間違ってる部分もあると思うけど、なんかイメージできたんじゃないでしょうか。

 

 

ただ

主観とか客観とかに分けてとらえる前の、存在の状態。ここに今あるということ。

 

と言われるんじゃなくて、いろんな側面と言いますか、言葉を尽くして記述されるとそ中から共通する部分を頭が抜き出して概念を構成してくれてわかった感じになるんじゃないかと思います。

 

 

 

そうなるとやっぱり具体的ってのが一番ですよね。具体例あるとやっぱりいい。ベンゼンってなに?ってなったらグーグル先生に画像を見せてもらえばいい。炭素原子で正6角形が作られてるやつと言われてもうーん、わかる人にはわかるけど。

 

 

やっぱ画像ですよ!イメージっていうほどだから。

(文章が雑になってきた)

わかっていたら人に教えられるとかいうけど、それもやっぱり正しくて理解できない物事を理解してもらうためにいかに色んな視点から物事を見ることができるか、視覚的に表現することができるか、とか色んな要素が詰まってる。自分で試す分には図示して見るのが良きかなと。

 

 

そうだ、わかりやすさに関して、これは誰にとってわかりやすいかっていう人に依存する部分が大きいと思うので「わかる!〇〇!」みたいな本は幾分か傲慢だと思います。対象読者が明確ならまぁまぁいいか。

 

 

わかるためにどうしようか

じゃあ私たちはどう勉強するべきなのか。それはもうまずは本読んだり動画見たりね。そんでわかんないところがやっぱり出てくると思うからそこをじっくり読んだり。それでもわからないってことはよくあると思う。そしたら別の本を読もう!ネットで調べよう!(「〇〇 わかりやすく」ですね)そんで色んな言葉とか画像とか映像とかで色んな角度から対象を眺めて「これはこういうことか!」「この時はこうなるのか」「こういう解釈の仕方もありだな」とかやるといいんじゃないでしょうかね。難しい概念とか哲学用語だったら、まぁ平易な言葉で書かれた本を読んでざっくりとしたイメージを掴んでから読むとか何回も読んでみるとか、わからない言葉が違う文脈でどのように使われているかとかやっぱり色々な角度から眺めて見るのがいいように思います。それでも哲学書は文が破綻しているんじゃねぇかと思うことがあります。

 

 

あとはあれですねぇ。周辺との関連を考えるとか。色んな角度から眺めるのがある意味、その対象となる物事の内的メカニズムを調べ原理を明らかにするように「これがこう機能して〜」「あの時はああなって〜」みたいな。一方関連を考えるのは、対象を客観的というか広い視点で見たときにそれが全体の中でどのように使われたりどのような意味を持っているのか、他のものと関連して実はこんな構造になっていたとか、そういう発見が重要に思います。

 

微分ってなんの意味があるの?と言われたら、生物の個体数の増加は個体数に依存するので指数関数的に増えるよってのを考えると(どっかで頭打ちにはなるんだけど)こんな感じでしょう

 

f:id:shigenoir:20180713000807j:plain

 

微分=変化量を個体数に依存すると仮定し方程式を立てることで右下のグラフのように未来を予想できる(例は雑ですが)という使い方ができます。ネイピア数ってなんの意味があるのってなったとき、こういうところに出現します。logもなんの意味あるのって言われたら右下のグラフをログスケールで表示する(左下の式の状態で縦軸にlog|x|をとって横軸にtをとる)と傾きがkの直線になります。

 

応用を知ると「あ、こう使われるのか!」みたいな例になってればウレシス。

 

あと、最後になっちゃったけど、やっぱ復習しないとあれっすね。暗記とかダサい。これは確か。でも暗記ってのはある意味丸暗記を意味していると思っていまして、暗記ってのは意味内容をきちんと理解していないってことに思える。テストで書けるようにその形式で覚えるみたいな。

 

 

と批判して見たものの、最初は暗記でもいいから復習したりして覚えるのがいい。できるだけ複数の視点から眺めたり他の関係性とか意味を考えると自然に覚えられるような気がするけど、とりあえず覚えるしかないこともある。

 

 

より発展的なことを考えるには暗記してるなんて当たり前。頭の中に浮かべられない概念を操作して新しいことを考えるなんてできますかね??数学で定理を覚えなくても周辺との関連性がわかって式とかをスラスラ導出できるならそれでもいいと思う、意味は抑えてるわけだから。

だから言ってしまえば、暗記は意味を獲得してそれを自分の頭の中で有機的に結びつけて思考するための最初の基本ステップだと思う

 

 

そんな感じで日々勉強しています